オリンピックを目指して

私がオリンピックを目指していたのはセーリングというあまり知られていないヨットの競技です。
小さい頃からその道のエリートコースを歩んだわけでもなく、当時云わば期待されていないくらいの存在でした。

そんな私がなぜオリンピックを目指したのか、そしてその後なぜ、ものづくりの道に入ったのかをお話ししたいと思います。

高校生の頃、アトランタオリンピックでヨットで初の銀メダルを取ったのをテレビで見たときに、漠然とオリンピックへの憧れを持ちました。
そして大学のときに世界の選手と試合をする機会を頂いたときに、「この人たちと最高の舞台であるオリンピックに出たい」と思うようになりました。

一度は普通に就職し、オリンピック出場への夢も諦めましたが、捨てきれない思い募りもう一度挑戦することを決意しました。
マイナー競技ならではの資金の工面や艇の輸送の段取り、またトレーラーを引いてのヨーロッパ遠征など、多くの経験と挫折、何よりも多大な応援者のおかげでアテネの海でレースすることができました。

軽風では世界一のスピードを持つ私たちはメダル候補でありましたが、結果を残すことができず、11位という結果に終わりました。

転機

アテネオリンピックの後、実家に帰った時、当たり前に感じていたもの作りに携わる父をはじめ家族の姿を素敵に思いました。

海外遠征中に選手との交流の場であるウェルカムパーティなどで「両親は何をしているの?」と聞かれ「着物を作っている」と答えたとき、「なぜあなたは今着物を着ていないの?」と尋ねられたことや、日本の文化について何も話せなかったことに衝撃を覚えたことを思い出しました。

私が本当にすべきことは何かを考えたときに、オリンピック選手に代わりはいるけれども、この家に生まれた私の代わりはいないと思ったことが、父の家和装業界に入るきっかけになりました。
そして今、全国の小売店さんを通じ、たくさんのお客様ともご縁を頂戴しております。

西陣には数少ない女性の作り手として、現代の女性に着ていただきたい着物を作りたいと思い、「かはひらこ」ブランドを立ち上げました。

母として、妻として、娘として、女性として・・・
それぞれが違う立場にありながら、自立した女性の思いが表れる世界を作りたいと思います。

自分がオリンピックに出たとき、世界の人たちに日本を語れなかったことがきっかけでこの着物業界に入り、今では生け花や能も習うようになりましたが、学ぶようになってから「日本てこんないい国だったんだ」と気がつきました。

東京オリンピックまでに、日本人として日本のことをきちんと語れる人が増えてほしい。 そして、そのときに着物を着てサポートしてくれたら嬉しいです。
私も誘致活動の一つとしてオリンピック委員の方たちを着物でご案内しましたが、海外の方はもちろん日本人の方も喜んでくれました。

ホスト国として何ができるのかなと思ったときに、世界中の方をお迎えする日本人の中で1人でも多く着物でおもてなしをしてくれる人が増えてくれたら、と思います。
オリンピック選手で出場していなくても、日本人として日本を語れる人も立派な「日本代表」ではないでしょうか。

そして、現在、西陣ではほとんど生産されておらず、着物業界の縮小とともに、多くの機がつぶされ、そこにマンションが立っています。
機音が西陣から消えていくのと、日本人の心から着物が消えていくのは同じです。
『一日も早く西陣に機を戻して、町で聞こえる機音を復活させたい。』
それが私の夢になっています。